
今回、5月25日に行われる DOC spective #2 @CINEMA AMIGOでの上映作品が「へんりっく 寺山修司の弟」となりました。
それに関わる(少なからず関わることを目標とする)料理を出させていただくにあたり、まず映画の中に食べ物の描写やエピソードがほとんどないこと、あっても巨大なステーキをへんりっく(主演)が飲むように寺山修司の分まで食べてしまった、という話だったりすることから(私が作るのがベジタリアン料理のため)メニューが決まらず悩んで時間ばかりが過ぎていく中で、へんりっくの戸籍上の兄である寺山修司の好物、という視点で何か作れないだろうかと半ば苦し紛れに手を伸ばし調べはじめました。
すると、寺山修司の好物は何と!砂糖入りカレー!?とコーラ、餃子やコロッケ、といった大衆的な食べ物。そして大食漢であったそうです。
故郷青森の味噌煮込みうどん、焼き鳥、というのもありました。
消去法でいけば、味噌煮込みうどんは出せないことはありませんが、あまりにもミニシアターで映画を観た後に食べる食事としては大衆的で普段作っているものとかけ離れてしまうのでパス。焼き鳥も鶏肉なのでNG。となるとベジにアレンジできるのはカレー、コロッケ、餃子、といったところでしょうか。
映画中にもトマトがのったお世辞にも美味しそうとはいえないカレーがちらっと出てくるし数週間悩んだ末にアングラ風味のきいた天井桟敷のベジカレー、にすることになりました。(どんなカレーじゃ!?)

そしてほとんど自分自身がオンタイムではその存在や活躍を目にすることのなかった寺山修司さんについて調べるうちに、その背景やまわりの人物にも興味がわいてきました。
当時同じ世代の俳人として存在した尾崎放哉。放哉は、はてしない下降志向。意図的に破綻していった俳人、とのことでした。対極の立ち居地(なのかなぁ)で俳人として存在していたようなお二人。私にはどうも寺山修司より尾崎放哉のもろもろの方がしっくりくるようでした。
【寺山 修司】(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。高校時代に、すでに早熟俳人、歌人として名をとどろかせていた。上京して早稲田大学に入学し、二十四歳のとき、戯曲『血は立ったまま眠っている』が劇団四季で上演される。
「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。元妻は九條今日子。
【尾崎放哉】
帝大(現在の東大)卒業後、東洋生命に就職し、東洋生命保険大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然、それまでの生活を捨て、無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の
生活に入る。その後、寺男で糊口(ここう)をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら、俳句を作る人生を送った。クセのある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称された。その自由で力強い句は高い評価を得、代表的な句に、「咳をしても一人」などがある。
実際、放哉の句を読み理解し堪能したわけではまったくないのですが、何とも魅力的な(私にとって)プロフィールの持ち主でした。
かといってやはり『新・餓鬼草子』の「善人の研究」などをチラリとかじると、寺山修司の文章にはひきつけられずにはおれず、というのは確かだったりするのです。そこはやはり天才と言われる所以なのでしょう。
時代時代の価値観の変化ではありますが、「きみもヤクザになれる」の項にある「三日間をパンと牛乳ですまして、四日目に『マキシム』のステーキをフルコースで食べるといった経験の狩人になることは現実の中での自分のアリバイを知る上でも『英雄的』なアイデアであるように思われる」という思考は、どうも大袈裟に言えば安アパートに住んでもフェラーリに乗る、みたいなバブル期に実際いたような田舎くささに似たものを感じてしまうのです。
対して放哉の、豪奢な生活をへともなしに捨て隠遁生活を送る性分は自分の中にもともと存在しているものと似通っているというか、上昇志向の寺山修司に比べ同じ水の中に生息する生き物のような気がするのです。(自分は豪奢な生活をまるで送ってはいませんが)
話はそれまくりましたが、ということでカレーを作ろうと思います。
愛すべき天才の好んだ砂糖入りカレーに代わる天井桟敷風味の世にも不思議なおいしいベジカレーを。
(もちろん砂糖はいれませんのでご安心ください)